アルプスをつなぐ街で~八木たくまの伊那日記

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カテゴリ:記者時代( 6 )

5年ぶりに被災地へ

土曜日の「はしば」の営業を終え、夜な夜な高速を飛ばしました。
遅めの冬休みは、ずっと行けなかった東北へ。
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寝たり起きたりしながら9時間かけて着いた、仙台のインターチェンジ。

懐かしい。
この場所で、震災直後の3月下旬、ヒッチハイクをした。
大阪まで帰るためだったけど、きっと人生最後だろうなー。

2011年3月11日。
東日本大震災の当日、産経新聞大阪本社からの応援取材班第1陣として、会社のランクルで同僚記者3人とともに現地に向かった。その後震災1年の節目まで、言葉にできないほどいろんなことがありました。

震災翌朝に仙台に到着し、被災地に入っていた僕たち第1陣の応援取材班に「帰ってこい」指令が出たのは約10日後でした。
第2陣の取材班と交代したものの、高速道路も新幹線もマヒしていた当時。大阪本社が用意してくれた帰りのヘリコプターの定員では全員が乗れず、「俺、ヒッチハイクして帰りますよ」と言ってここまで送ってもらったことを思い出す。

救援物資を送り届けた帰りの見ず知らずのトラックの運転手さんに新潟まで送ってもらい、新幹線でなんとか大阪まで帰ることができました。

途中、節電で暗闇になっていた東京。
でも、大阪は日常だった。
被災地とのあまりのギャップに、壊れそうになったなぁ。
いや、壊れていたかもしれない。

震災から1か月、3か月、半年、1年と、節目ごとに東北に行かせてもらったけど、会社を辞めて伊那に移住してからは、気にはなりながらも一度も来れなかった。

会いたい人がいる。
でも、連絡先もわからない人もいる。
当時の仮設住宅を移っていたら、会えないだろうなぁ。

そう思いながら、とりあえず来てみました。
明日から、会いに行ってみます。
by yagitakuma | 2017-02-12 23:32 | 記者時代 | Comments(0)

生き方を問い返す春先に。5年目の3月11日を迎えて

3月11日。
伊那市議会でも、議場の国旗と市旗に喪章が。
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午後2時46分、市内に追悼のサイレンが響き、全員で黙祷を捧げました。

今、明けて午前1時半。
5年前のこの時間、僕は新潟県内の高速道路をひた走っていました。
地震発生時、僕がいた大阪府警本部の記者クラブも大きく揺れました。津波の一報が入り、大きな事件を抱えていなかった僕が、大阪社会部から応援取材に派遣されることに。

続々と救援に向かう各地の消防車両と共に、真夜中の高速道路を北へ北へと走りました。未明には長野県北部地震の一報も入り、「日本はいったいどうなってしまうんだろう」と、押しつぶされそうな気持になったことを思い出す。

仙台、東松島、女川、石巻、南三陸。
車の中。がれきの下。息絶えた人たちに降る冷たい雪を防いであげることすらできない現実。体育館に次々と運ばれる泥だらけの毛布にくるまれたご遺体。すがりついて泣く家族とともに、ただただ茫然と涙を流すことしかできませんでした。

でも、まだ救いはあったのかもしれない。
ご遺体が見つからない方々のことを思うと…。

それから1カ月、3カ月、半年、1年と、節目ごとに現地に行かせてもらいました。
時間の経過とともに各地で人々が立ち上がり、前向きな報道が増えていきました。
「死んだ人のために、前を向かなきゃ」
この言葉を、何度聞いたことか。

半年の節目で、産経新聞として被災者の方々へのアンケート調査を実施したときのこと。
仙台市内の仮設住宅を回り、出会った壮年の男性のことが、今でも忘れられない。

カーテンを閉めた薄暗い部屋で、静かにテレビを見ておられたごま塩頭の大柄な男性。
体調や生活の不便さを聞き取り、そして身内の被災状況を。
男性は突然、その大きな手で顔を覆い、声を絞り出しました。
「一緒に逃げたのに、手を離しちまったんだ…」

奥さんでした。

あの男性は今、どうしておられるのだろう。
おそらく今でも振り返ることすらできない方々が、たくさんおられることだろうと思う。
どうか、いつか、心安らかになる日が来ることを、願うことくらいしか僕にはできない。

この世は生きる喜びにあふれているけれど、いつ運命がこの生を断ち切るかわからない。
一度しかない人生、いつ終わるかわからない人生を、意義ある時間にすること。
事件の犠牲となった姉の命日と僕の人生を動かした震災の日を迎えるこの春先は、ずっと毎年、自分の生き方を心に問い返す時間となりそうです。

今日は、はしばに来てくれた方々が、たくさん東北のお酒を飲んでくださいました。

僕も少しだけ。
東北と姉を思いながら。
by yagitakuma | 2016-03-12 01:44 | 記者時代 | Comments(2)

八木、2時間だけパパになる。帰郷をあきらめるのか…震災被災家族との再会。

先日大阪に行った際、2時間だけ、パパになりました。
どうしても会いたかった人たち。
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堺市の市営住宅に住む鈴木さん一家。
ダンナさんは仕事で留守でしたが。
3年ぶりの再会で、もみくちゃに。

イケない関係じゃないですよ。隠し子でもない(笑)
鈴木さん一家との出会いは、忘れられないものでした。

約5年前の3月15日。東日本大震災から5日目でした。
僕は、宮城県女川町にいました。
産経新聞大阪社会部からの応援取材班として現地入りして4日目。
約2000人が身を寄せていた町総合体育館で、避難所を取材するために被災者の方々とともに一晩を過ごしました。
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写真は、当時4歳だった次女のレイカちゃんと、3歳だった三女のレイラちゃん。
まだ食料もなく、菜っ葉だけの味噌汁を大切そうにすする姿にカメラを向け、ご両親に話を聞きました。すると、母親の真由美さんの妹が僕の出身の堺市にいることが判明。話が盛り上がり、すっかり仲良くなりました。

保育園から避難する際に津波を見てしまった子供たちの凍り付いた表情。泥だらけの足元。
再会の歓喜と、悲しみの対面とが覆う体育館。

僕は後ろ髪をひかれる思いでいったん大阪に戻りましたが、10日ほどたって「堺市に避難することに決めた」と連絡がありました。

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布団だけの引っ越し。子供たちに笑顔が戻りました。
ダンナの武さんも、「仕事と家のあてができたらすぐに女川に戻る」と、故郷への思いを口にしていました。
この当時は…。

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翌4月6日。長女、レイナちゃんが堺市の小学校に入学。勉強机や文房具など、見ず知らずの方々の支援がたくさんあったそうです。

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6月。
はじめて女川へ。何もなくなっている光景に衝撃を受けながら、友人や子供たちの同級生との再会で、「自分たちは、やっぱり女川なんだな」と感じていました。

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7月。
6月の帰郷時に津波で流された自宅跡で偶然見つけたデジカメのデータが、奇跡的に復活!!特に、女川の同級生たちとの思い出の写真がすべて流されたレイナがすごく喜んで…
このとき、「お金をためて、1年で戻る」という目標ができていました。

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震災から1年後の3月。
長女、レイナが女川へ。
震災で開催できなかった保育園の卒園式が1年遅れで開かれました。

家族みんなの交通費はとても出せず、「空港まで送り迎えをしてレイナだけで行く」という選択になった鈴木家。それが無理なら、卒園式への出席はあきらめるしかない。
なんとしても同級生に会いたいレイナ。

見かねた僕は会社に相談し、取材にかこつけて女川まで同伴させてもらえることに。
なかなか楽しい飛行機での2人旅でした。
先生に再会してはにかむレイナの表情は、震災以降最高の笑顔でした。

僕の鈴木家の記事は、このレイナの卒園式が最後。
次の3月を記者として迎えることなく、僕は退職して伊那に戻りました。

今回、3年ぶりの再会でした。
すごく元気そうで、ほっとひと安心。
みんなすっかり大阪弁になってました。

レイナは「保育士になる」という夢ができました。きっと幼いきょうだいたちの面倒を見続けてきたからだろうな。
次女のレイカは、「ダンサーになりたい」と、毎日ダンス教室に通っています。先生も認める才能の持ち主らしく、「大きくなったらロスに行く」と宣言しておりました。僕が「英語の勉強せなあかんなー」というと、「英語ってなに??」みたいな顔をしてましたが(笑)

元気そうだけど、震災の記憶がはっきりと残っているレイナとレイカは、今でも震災の報道が増える時期になるとトイレにこもってしまうそうです。

そして、「必ず女川に帰る」との誓い。
故郷の現実は、まだ家もなく仕事もない。
女川を離れた友人たちも多いそうです。
レイナたちきょうだいは堺での友人が増えて…

もう、「女川に戻る」という選択肢は現実的ではなくなっているのかもしれない。
5年もたつんですもんね。

とはいえ、みんな元気ならよかよか!!
「ちょくちょく記事になっていたあの家族、どうしてるかな」と思ってくださっていた産経新聞の読者がおられるでしょうか。
みんな元気ですよー。

武ちゃん、また会おうぜ!!
by yagitakuma | 2016-01-25 19:45 | 記者時代 | Comments(0)

キラキラした目の記者の卵が店に来てくれた

こんばんは。はしば店主の八木です。
店が終わって一息ついて、なんだか遠い目をしてしまう。そんな夜更けです。
今日の夜は、社会に出た十数年前を思い出すような出会いがありました。

開店と同時に一人で入ってきた彫りの深い青年。なぜかキラキラした僕への視線を感じる。

「八木さんですか」
「(んん?初対面だよなぁ…)」

東京から、合宿教習で免許を取りに来た大学生でした。
来春に、共同通信社への就職が決まっているとのこと。
隣の駒ケ根市の教習所の宿舎から、電車で伊那へ飲みに。
駅前にある僕の大学の先輩のお店で、僕が記者上がりだと聞いて来てくれたそうです。

東京生まれ。父はムスリムのバングラディシュ人。
小学校3年で発生したアメリカ同時多発テロ事件の衝撃はあまりにも大きく、父がイスラム教徒であることを、隠し続けた少年時代だったそうです。そこからずっと遠ざけていた父のルーツだったけど、思いきって海を渡って親族に会いに行った時に受けた温かな愛情で、一気に心の澱が溶けて…

「イスラム教徒の父がいて、日本人として育った自分だからこそ、伝えられることがあるんじゃないかと思うんです」

マスコミを目指したきっかけを、隣の席のおじさんにアツく語っていました。

ほかのお客さんとすぐに意気投合して、「こんど連絡しておいで。旨い蕎麦を食べに連れてってあげるから。名前は?」と可愛がってもらって、連絡先を交換してた。

きっと、いい記者になる。

ほんの数日で、東京→駒ケ根→伊那→「はしば」にたどりついたのもすごいし、....ドン!と人のフトコロに飛び込む力を持っている。2つの国の血が流れていることで、否応なしに自分を深く掘り下げることになったんじゃないかな。

自分のことを思い返せば入社前、「地を這う目線の記者になる」「デカいネタで社会を動かしたい」とか、偉そうなことを考えてたなー(笑)
でも、丸9年の記者時代、無力感にさいなまれることもたくさんありました。「社会なんて、そんなに簡単には変わらない」と。
今も時々そんなことを感じながら、でもやっぱり世の中のことを考え続けたい自分、動き続けたい自分がいる。

「必ず来るよ。無力だなーと感じるときが」
と口にしながら、すごく応援したいと思った。

最初は地方支局からのスタートになるけど、希望の外信部に行けるように、いい人脈とネタに恵まれますように。

そういえば、親友で毎日新聞にいる僕の農学部の同級生もこの秋、念願かなってパリ支局に異動になった。そいつもアメリカ人とのハーフ。そして、直後のテロ事件…。

みんなガンバレ
俺も前へ前へと。
by yagitakuma | 2015-12-05 02:13 | 記者時代 | Comments(0)

大阪へ。最後の仕事

店づくりの合間に17日から3日間、大阪へ。

春まで勤めていた会社からの依頼で、法廷の証言台に立つという貴重な経験をさせてもらいました。僕が現場で取材した事件に関連した訴訟の証人として。

開始前、僕を含め原告側と被告側の証人計3人が証言台の前に並んで立ち、「ウソはつかないことを誓います」といった内容の宣誓書を声を揃えて読み上げる。ひな壇に並ぶ法服の裁判官に向かって。小学校の教室のようだ。

会社側弁護人と原告側弁護人双方から計20分ほどの尋問。傍聴される側になるとはなんとも不思議な気分でしたが、さほど緊張はなく、思ったより落ち着いて証言することができました。
ただ、会社の方々がご馳走してくれた前夜の飲み会は終了が午前2時半。日頃の疲れもあって、自分の出番を法廷の外で待っている間に廊下の椅子で眠り込んでしまって……

先に証言台に立っていた先輩に慌てて探し回らせるという大失態。
弁護士さんは「何百人も証人尋問してきたけど、開始前に寝てた人ははじめてですわ」。

ごめんなさい(..)


前日は弁護士さんとの打ち合わせの後、大阪社会部の同期の仲間や後輩、お世話になった先輩方が飲み会を開いてくれました。退職時は有給休暇に入ると同時にバタバタと伊那に移住してカフェ作りを開始しただけに、きちんと挨拶できないままだった方がたくさんいました。
辛いときも楽しいときも、共に走り回り、愚痴をこぼし、遊んだ面々。先輩方からは僕のこれからの道へのアドバイスをいただき、同期や後輩たちとはバカ話や職場の現状を。夜討ち朝駆けの日々でお世話になったハイヤーの運転手さんとも再会できて、とても楽しい夜でした。


記者時代は、赴任する土地ごとに友人や可愛がってくれる方々がたくさんできました。でも、何か事が起きればすぐに現場に駆けつけなければならない身。休日でも担当エリア外に自由に遠出できず、転勤後はほとんど会えなくなってしまう人がほとんどでした。
退職すれば会いやすくなるかな、と思っていたけど、新しいことを始めるとなると余裕がなくて余計に会えなくなってしまった。

一人ひとりとの出会いが自分を育ててくれた。思い続ければいつかまた会えると信じよう。


「頑張れよ」と送り出してくれた方々の思いを無にしないよう、走り続けます。
by yagitakuma | 2013-09-20 20:41 | 記者時代 | Comments(2)

やり残したこと

2年前の今日、僕は宮城・石巻市の南浜地区にいました。
東日本大震災翌朝に大阪からの応援組として同僚やカメラマンとともに宮城県に到着し、仙台と南三陸町、東松島市、女川町を経た後の5日目でした。

そこで出会った被災者のことが、脳裏から離れない。

1つだけです。記者を辞めるにあたって、やり残したこと、気がかりなことは。

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当時の記事です。


―東日本大震災の死者・行方不明者が日を追うごとに増えるなか、被災者は愛する人の消息を求めて、がれきの街を歩き続けている。津波が襲った直後から大規模な火災が発生していた宮城県石巻市の被災地にも流れ続ける涙をぬぐおうともせず、くすぶるがれきの中をさまよう男性がいた。
  (八木択真、写真も)

 男性は丹野徳雄さん(54)。妻の靖子さん(53)が石巻市南浜町で被災した。幾度も津波と引き波を繰り返した一帯は押し流された車の爆発で火災が発生。数日間燃え続けた火が治まった16日、見渡す限りのがれきの〝海〟に初めて足を踏み入れたという。ようやく自衛隊も入り、周囲では捜索と遺体収容が始まっていた。

 「体がねえなら何か見覚えあるものねえかと思ったけど、これでは捜しようもないよね…」

 いちるの望みを断ち切られ、涙があふれ続ける見開かれた目。変わり果てた街を見渡し、震える声で話し始めた。

 靖子さんは先月、この地で洋服の直し店を始めたばかりだった。3人の子供を育てながら家事の合間に自宅で続けてきた仕事で、店を持つのが長年の夢だった。

 「商売にならねとは思ったけど、ずっとやりたいっていってたから…。古い建物を2人で直して、このペンキも私が塗ったんです」。そう指さしたのは、明るい緑色に塗られたコンクリートの壁がわずかに残る10坪ほどの店の土台。2人で作った店の面影はこれだけだった。周囲の家も車もすべてが押し流され、近くの高台のふもとに打ち寄せられて焼けこげていた。

 地震発生時、丹野さんは経営する市内の水産加工工場にいた。すぐに避難し、次の日に妻の店からわずか50㍍ほどの高台の上にある自宅に戻った。「車も女房もいないし、こりゃやべえって…」。避難するなら高台の自宅を選ぶはず。しかし助けたくともがれきの海はすでに炎を上げていた。

 「ちょっとのことで助かったはずなのに。5分走れば…。悔しいよ…」。

 靖子さんとは29年間連れ添った。「今はばあちゃんだけど、若いころはめんこかったですよ…。ものごとをはっきり言う女で、しょっちゅうケンカしてました。あまりにもむごすぎるよね。これから仲良くしようと思ってたのに…」

 漁港の船も仕入れ先の市場も流され、仕事を再開できる見込みはない。それでも丹野さんは被害を受けた仕事場の片づけを始めることにした。「残された者は動かねえと気が狂ってしまう。じっとはしていられない」とようやく前を向いた。

 街を出た息子たちにも隠していた妻の被災を伝えることを決めた。「いつまでも隠していらんねえから、心の準備をさせねえと」とつぶやき、再びおえつが漏れた。

「でも家族というのは…1人欠けても…1人が欠けても…」

 軍手をはめた手で顔を覆い、傾いた日の中を自宅がある高台へと歩き出した。―





がれきの海に1人でいた丹野さんは、前後に揺れるように、「歩いている」とも言えないような歩みだった。目が合った瞬間、何があったのかがわかりました。わななく唇。見開かれた目。慟哭。あれほどの絶望の目を、僕は見たことがなかった。


「ひどいよね…」

「どこもこんな状況です。どこも…」


どちらから声をかけたわけでもなく、しばらくは会話にもならなかった。それまでの4日間、次第に各地で自衛隊ががれきの中に道をつけ、テレビもなく情報がない現地でも惨状が理解できるようになってきていました。がれきのすき間やひっくり返った車の中や、あちらこちらに遺体があるのに何もできない。体育館や競技場に仮設された安置所には泥だらけの毛布にくるまれた遺体が次々と運ばれてくる。大切な人を失った人たちの絶望と、生き残った人たちの不思議な高揚感とに囲まれ続けていた僕は、丹野さんを前に必死でこらえていた嗚咽が止まらなくなってしまった。

そんな僕に、丹野さんは話し続けました。

最後に「こんな家族がいたことを、伝えてください」と震える言葉を絞り出しました。

でも、その後会えていない。3カ月の節目で現地を訪れた際にご自宅を探し当てて訪ねさせてもらったけど、娘さんが「今はまだ会えないと…」とおっしゃっていました。1年の節目の際には、応答がありませんでした。
はたして記事にしたことが正解だったのか。今もわかりません。

どれだけ取材しても、本当の悲しみを伝えることはおそらくできない。癒えない悲しみは、あの日のことを話すことすらできない方々にあるのではないか。報道の限界を知りました。

もう一度訪ねてみようと思っています。それでもお会いできなければこのブログを削除し、澱のように積もったこの気持ちを心に刻み続けようと思います。
by yagitakuma | 2013-03-16 21:11 | 記者時代 | Comments(2)